3月

3月。

あたたかな日差しと冷たい風、春の訪れを思い起こす言葉だ。もう暖かいぞ、いいやまだまだ油断してはならないと自制する駆け出しの恋のようにも思える。なんてことは、ない。

相変わらず録音に邁進する私は、はたから見ればよく分からないものに情熱を傾ける物好きのように映るだろう。実際、私の目にもそう映っている。1人あーでもないこーでもないとボソボソ呟きながら、時には楽しそうに笑ったり、時には無愛想にいかにも集中している素振りを振りまいたりしながら、目の前のマイクに音を聞かせ続けている。進捗はどれくらいなのだろう。1月にお客さんに尋ねられた時は3%という言葉が口をついた。実際そんなもんだったが、今は20%くらいはあると思う。いや、そう思いたい。ていうか、60%くらい終わってて欲しいマジで。だが、本人の希望と現実とは大抵折り合いを必要とするものである。録り直さなくちゃいかんであろうトラックが出現する度に、ああ、あんなに頑張ったのに没かよ。と自分の腕前が嫌になる。録音し忘れているアレンジなんかもあったりして、ああ、またマイクセッティングしなきゃ。と3月通り越してもはや梅雨気分である。

話が逸れるが、ブログって書いてるうちに何書こうと思ったっけ?とならない?ならないかなあ。?マークが並ぶと、急に日本語がややこしくなるなあと感じるなあ、と更なる逸れ話を始めたくなってしまうぐらい、書こうとしたことを忘れてしまった。なんだっけ。私が書こうと思うことなんか、せいぜい、なんかカッコ良さそうなこととか、最近のことぐらいだと思うんだよね。そうだ、最近はバードウォッチングに双眼鏡を持っていくようになりましてね。鳥が大きく見えるので、鳥の種類判別がやり易くなるし、もふもふの冬羽がこう凄くてですね、すごいんですよ。

とにかく、忘れた。

なんて気分屋なやつなんだ。全くその愚かさに自分が嫌になる。これをお読みになった全ての方に、その貴重極まりない時間を浪費させたことに対して改めて謝罪したい。なんてことは、ない。

あえてカッコ良さそうなことを言えば、私は言葉をあまり信用しないのだ。信用するのは作品と行動である。この録音を通じて日夜祈っていることは、いかに馬鹿でいれるか、主観的でいれるか、である。あまりに集中した主観が社会へとめり込み、穴を穿つ。それはそれは、焼いている途中のホットケーキ生地の泡のようで、退屈する観察者の心を少し慰める。そんなようなことを少し夢見ている。なんてことは、あるかもしれない。

とにかく、忘れた。

ディランの映画観てこよ!